日奈久温泉マイスター

日奈久温泉とは

1409年、南北朝の戦いで父が負った傷の平癒を願った浜田六郎左衛門が、市杵島姫命のお告げを受け、干潟の中より発見した言い伝えが残る。地元には温泉神社、六郎神社が祀られ、平成21年に国登録文化財指定を受けた木造三階建て旅館「金波楼」を含む、約20軒の温泉旅館が薩摩街道と路地に並ぶ温泉街を形成している。泉質は弱アルカリ単純で、美肌、リュウマチや創傷に効くと言われる。

神のお告げで発見された

歴史01

神のお告げで発見された

足利尊氏が政権を執った南北朝時代。肥後守に命ぜられた甲斐重村(尊氏方)と菊池武重(南朝方)が戦い重村が敗北。部下の浜田右近は傷を負いながら日奈久の近くへ辿りつきました。右近は日奈久へ移り住み、やがて村の娘と結婚し、子・六郎左衛門に恵まれます。六郎は永い間父の刀傷の平癒を安芸の厳島明神に祈り続け、満願の日、神のお告げがありました。 お告げに従って海の浅瀬を掘ると温泉が湧き出しました。時に応永十六年(1409)。今から約六百年前のことです。

奈久の祖神・守り神の温泉神社

歴史02

奈久の祖神・守り神の温泉神社

お告げで発見された温泉で、刀傷が治った日奈久の温泉は湯治の客が日増しに多くなり、まちには人が集まりました。「神様をお祀りしよう」と、村人は市杵島姫を祀る祠(弁天社) を建立。温泉の神様は日奈久の人に崇められ護られ続け、現在にいたります。後に六郎神社も同じ境内に移りました。温泉神社のすぐ下は下湯の温泉センター、六郎温泉発見の場所です。昔はそこまで海がせまっていました。 町並みが海の方へ広がる様子が見下ろせます。

奈久の祖神・守り神の温泉神社

奈久の祖神・守り神の温泉神社

肥後細川藩の藩営温泉

歴史03

肥後細川藩の藩営温泉

秀吉が日奈久温泉を通った頃、温泉は干潟に湧いている程度でしたが、天下が平定され、江戸幕府ができ、日奈久の海岸沿いも参勤道として薩摩街道が整ってきました。温泉は島津公も参勤往復の憩いの湯として愛用されました。 細川藩は明暦三年(1657年)温泉浴室を大改築し、大規模な藩営の温泉場が出現します。藩主が入浴する「御前湯」士分のための「お次ぎの湯」平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけ身分に別けた浴槽で、画期的なものでした。 幾度も大火、復興を繰り返し、明治になって藩の直営を離れ御前湯、お次ぎの湯は有料、平湯は無料となりました。

人も羨むほどに栄えた

歴史04

海の干潟の中で発見された温泉は、孝子物語とその効能の二重効果で噂は噂を呼び、浜辺の日奈久はみるみる温泉の町と変貌していきます。明治に入ると宿も増え名士たちも「どこよりも日奈久」とやってきます。門司八代間に鉄道ができ、日奈久港には定期船が着き、人力車や乗合馬車が往来する活気ある日奈久温泉には当時十五軒ほどの宿がありました。放浪の俳人、種田山頭火が訪れ、この地を絶賛したのは昭和五年(1930年)のことです。その後日中戦争(昭和十二年〜)時でも旅館は陸軍病院の保養所となり、日奈久温泉は愛され続けました。

そして現在・・・

歴史05

秀吉が日奈久温泉を通った頃、温泉は干潟に湧いている程度でしたが、天下が平定され、江戸幕府ができ、日奈久の海岸沿いも参勤道として薩摩街道が整ってきました。温泉は島津公も参勤往復の憩いの湯として愛用されました。 細川藩は明暦三年(1657年)温泉浴室を大改築し、大規模な藩営の温泉場が出現します。藩主が入浴する「御前湯」士分のための「お次ぎの湯」平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけ身分に別けた浴槽で、画期的なものでした。 幾度も大火、復興を繰り返し、明治になって藩の直営を離れ御前湯、お次ぎの湯は有料、平湯は無料となりました。

泉質・効能

* 泉質  弱アルカリ単純泉。温泉はやわらかく、美人湯といわれています。飲用可。
* 効能  関節痛、神経痛、リウマチ、冷え症、創傷などに効く。

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